新城あいもーるアルコ 懐かしさいっぱいの写真

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予想年月は、昭和40年ごろ。ここは現在の「」です。かつては「信用金庫通り」という名前でした。向かって左の角が川崎信用金庫です。

アーケードのない風景
昭和30年5月の写真です。手前はまだ空き地で子どもたちが遊んでいました。森永牛乳の建物が現在のコンコルドで、その右となりが現在のカフェモアです。鯉のぼりのポールのあるところが現在の大平屋です。
昭和30年ごろの新城駅前風景。
まだ舗装されていません。バスはボンネットバス!
正面に見えるのが新城駅です。踏み切りの左脇が駅です。
昭和45年ごろの新城駅前風景。
舗装されました。バス乗り場に加え、タクシー乗り場も登場しました。街路樹に飾りつけもされています。
新城の歴史(中原区)
中原区の面積は14.81q人口は20万人を超えています。地理的には市の中央に位置しています。
多摩川の流域に展開する中原区区域の大部分を占めています。広い平坦地に恵まれ、江戸虎ノ門かた相模の平塚中原・大磯に通じる中原街道でした。
街道は地方物産の江戸への輸送路で、特に多摩川の「丸子の渡し」は昭和10年の丸子橋開通まで街道の主軸でした。
二ヶ領用水が今も流れ、かつては水田地帯でしたことは知られています。
東急東横線・JR南武線の開通以来都市化、工業化が急速に進みました。
今でも工業化・都市化の中でも昔同様米・麦・花木など農業を愛している方々が多いです。
ちなみに、今は多摩川ナシが有名ですが桃の栽培も多かったようです。
 中原区の意識調査によると一般に協調性が高く生活環境として交通・買い物便や医療施設の集積への評価が高く、将来的にも「若者の街」「人の街」「働く街」という声が多い中、安定した健康な街を望む人が多いそうです。
 中原区の商店街のうち「武蔵新城」「武蔵小杉」それに「木月・元住吉」の3つの繁華街が共に年間販売価格200億円を超えています。「新丸子」は100億円、「平間」はそのまた半分程度です。
 中原区には多くの文化財や史跡が残存しています。中原街道(道筋・石碑・御殿・陣屋・旧家後)、寺院の建築・宝物・文書、井田山の遺跡、住居跡、横穴古墳、周辺の「子母口貝塚」もあります。
 私的コメントになりますが、幼き頃の歩く道がぬかるみだったこと、貝塚で石と石をたたいて中から貝や魚の跡が出てきて楽しくて繰り返し遊んだこと。丸子の渡し船に乗って遊園地(多摩川園駅)にいったり、武蔵新城にあった映画館「大勝館」へあしげく通ったこと。
 朝早くから町の商店街は開いており、学校へ行くときにはどの商店も開いていたこと、口々に行ってらっしゃい!行ってきます!と声をかけながら通学したこと駅員さんが切符を買えずにいると「子供はただで良いよ、誰か大人の後ろに歩けよ!」といわれたり交番のお巡りさんに「鞄をうちに置いてから遊びに行きなさい」と笑顔で声をかけられあわてて逃げ帰った事も思い出されます。駄菓子屋さんによったり、毎日暗くなるまで遊び、近所のうちで夕飯を頂いたり、お風呂に入ったりいつの間にかよそのうちで寝てたはずが朝になると我が家だったり?何でか分からないまま学校にいったたり、今考えると本当に子供人生まっしぐらだったんでしょうね。そんな思い出があるだけに今の自分もお客様やこの町に関わる人たちと精一杯生きていきたいと思っています。
 これからも「新城子」の気持ちを忘れずにお仕事に遊びに皆様に貢献していきたいと思っています。